「本番3分前ですよ。 2人ともしっかりね」
舞台の控え室で先生が私達に言った。
パートナーの女性はアシスタントに最後の衣装のチェックをさせながら、私の顔色を伺っている。
そう。
実におかしな話しだが、、、私は本業の時計屋の傍ら、趣味でやっているクラッシックバレエの舞台に上がることになったのだ。
「中島さん、大丈夫よ。 自信を持ってやりましょう」
パートナーの女性は、本番を前にガチガチになっている私を気遣うようにそう言った。
ツンと尖った鼻筋。
引き詰めてくくったお団子の頭に、形良く前に出た額。
いかにもバレリーナらしい彼女の表情にもさすがに緊張感が漂うが、、、それは不安から来るものというよりも、今まで練習してきたことをしっかりやりきるのだといった強い意志の現れといった感じ。
ベテランの彼女は片手間でやっている私と違い、それなりのテクニックもキャリアも持っているのだ。
「ごめん、ちょっと待って。 ちょっとだけいいですか? 導入部分だけでも!」
私は先生にすがるように訴えた。
何しろ私はこれから本番の舞台が始まるというのに、、、どういう訳か頭の中からは振り付けがすっかり飛んでしまっているのだ!
それなりに練習したはずなのに、、何で?
せめて冒頭の部分だけでもリハーサルしないと、、、どうにもならない、。
私が最初から引っ掛かってしまっては、舞台は滅茶苦茶になってしまう!
もしそんなことになったら、、、?
観客のざわめき、そして失笑。
パートナーの困惑した顔。
先生の落胆、怒り。
それら全てが、、、絵に描いたようにハッキリと目に浮かぶ。
「中島さん何言ってるの? さあ、幕が開きますよ!」
先生は私を相手にせず、何でもない事の様にそう言って舞台を指さした。
幕は無情にもゆっくりと、、しかし確実に、開いていく。
舞台の向こうに、期待感に満ちた満員の観客席が目に入った。
まずい、本当にまずい。
こんなことになるなら、やっぱりやめておけば良かったのだ!
そもそも骨董時計屋の親父が、クラッシックバレエの舞台に立つなんて。
馬鹿なことを、、。
「さあ、行きましょう! 自信を持ってね!」
パートナーが背筋をピンと伸ばして一歩前に進むと、そこだけ丸くスポットライトに照らされた。
いや、ダメだダメだ! 本当に無理だー。
私の上にも、スポットライトが降り注ぐ。
うわー!!
ピピピピピ ピピピピピ
「父ちゃん、父ちゃん、、、アラーム鳴ってるよ!」
長女の声で目が醒めた私は部屋を飛び出すようにして、一階の居間に降りた。
そこにもやはり、バレエの曲が流れている。
「あ、父ちゃんおはよー」
トゥーシューズを履いた次女がカミさんと、バレエの録画を観ている。
「あれ、どうしたの? 早いじゃん」
カミさんの言葉には応えずに私は居間を通り抜け、寝巻のままデッキに飛び出した。
ボロボロになりかけたチークのテーブルの上には、愛用の灰皿とライター、そして前夜喫っていたタバコが置きっぱなし。
そいつを一本摘まみ出して火をつけた私は煙を深く吸い込んで、、、ようやっと生きた心地がしたのだった。