時は、平成18年の秋頃。
カスタム腕時計が完成してから、4年ほどが過ぎていた。
その間店のメンバーに変わりはなく、古株の岩田にタマちゃん、W、Nと紅一点のHon、そして私の6人。
カスタム腕時計の売れ行きは発売当初こそゆっくりだったが、何年か続けるうちに少しずつ支持者が増えてきて、、、気がつけば店の仕事はアンティークウォッチの販売修理が7割、カスタム腕時計の仕事が3割くらいの割合いに。
お客様の顔ぶれにも、変化があった。
それまでパスタイムにいらっしゃる方には多少なりとも懐古趣味があり、懐中時計以外でもアンティーク全般が好きという方が大半だったのだが、、、カスタム腕時計が出来てからは 「古いものに興味はないが、長く使えるしっかりした腕時計が欲しい」 という、全く別のタイプのお客さんがいらっしゃるようになったのだ。
もちろんこれは、店にとって有難いこと。
今月は懐中時計が低調だなぁ、などという時にカスタム腕時計に助けられたり、その逆もあったりして、、、言わば、パスタイムは、ちょっと潰れにくい店(?)になったようだった。
しかし、平穏な日々は長く続かないものだ。
少なくとも、私の場合はいつもそうだった。
ある日の仕事の帰り道、いつものように馬鹿話しをしながら歩いていると、、タマちゃんの様子がどことなくおかしい。
「ん? どうした?」
神妙な顔をしたタマちゃんはさも言いにくそうに、「すみません、、。ちょっと、、お話しがあるんですけど。。」
他の連中を先に行かし 「それじゃあ、その辺の店で話しを聞こうか?」 と言うと
「あ、でもこれから教室に行くので、、」
「え? 教室? なんだそれ?」
仕方なく、駅の方に向かって歩きながら、話しを聞いた。
夜遅くの井之頭通りには殆ど人通りがなくて、話しをしながら歩くのには都合がいい。
「しかしタマチャン、何の教室行ってんの?」
「あ、、実は、、ちょっと前からイタリア語の教室に通ってるんです。」
「イタリア語ー!? そうなんだ。 でも何でまた?」
しかし、、、タマチャンは、なかなか核心を話し出さない。
そのうち 「東進ハイスクール」 の手前に差し掛かった私がいつものように末広通りに向かって右に折れようとすると、、「すみません。 今日はあっちなんです」 と、 丸井の方を指さす。
なるほど、、イタリア語教室は、吉祥寺のようだった。
「東急イン」 の前に差し掛かったあたりでせっかちな私が彼をせっつくようにすると、、、声を絞り出すようにして、彼はやっと話し出した。
「すみません、、。 あの、、実は、僕、イタリアに留学する事にしたんです。」
「えーっ?! ホントかよ!? それ、いつの話し?」
「年が明けてからなんですけど、、。 フィレンツェの学校で、イタリアの伝統的な彫金を勉強したいんです。」
「えーっ、、。」
今度は、私が黙る番だった。
あまりに予想外な話しで、何と言っていいのか分からなかったのだ。
彼の実家は岩手で、以前、いつかは地元に帰ることになるであろう話しは聞いたことがあった。
しかしそれはかなり遠い先の話しのようだったから、、、まあ、その時はその時と思っていたのだ。
しかし、イタリア留学の話しは、全く寝耳に水だった。
もっとも後から聞いた話しでは、私だけではなく他の連中も聞いていなかったようだから、、、おそらく特別に慎重な気質の彼は、はっきり決定してもいないことを迂闊に口に出して、変な波風が立つのを避けたかったのだろう。
彼は彼なりに、かなり悩んだ末に決めたことなのだ。
「よし、分かった。 うちもいよいよこれからって時だから正直痛いけど、、、まあ仕方ないよな。 一度っきりの人生だから。」
私の方も、やっと声を絞り出すように言ったに違いなかった。
カスタム腕時計の手彫り文字盤。
懐中時計の特注ケース製作や、外装修理。
これらを1人で担っていたタマちゃんが、いなくなる。
エングレービング(洋彫り)と呼ばれる手彫りの技術は、日本では決して一般的でないから、代わりのスタッフが見つかる可能性は相当に低い。
時計修理担当のスタッフであれば、未経験の人間を一から教えることも出来るが、、、エングレービングは、私を含め、うちの誰にも教えることが出来ないのだ。
丸井の裏手に消えていったタマチャンを見送った私は、駅を通り越し、近鉄(現ヨドバシ)裏に向かった。
とりあえず、何をどうしようも、ない。
いつもの店に行って、、、一杯やる以外にないのだった。
(続く)